「人権教育」大切だと思いませんか?
私はものすごく大切だと思います。
渡辺憲司先生も、今こそ人権教育だと仰ってます。
ヨノナカ実習室では、人権について考えるためのワークショップを毎月開催します。
ヨーロッパの子どもたちが人権について考える時のために編集されたテキスト「コンパス」「コンパシート」を使い、知識や情報だけではなく、方位磁石のように「人権感覚」を鍛える、アクティビティや対話のWSです。
先日、少人数でのワークショップを実施しました。
フェイスシールドも使ってみましたが、
意外と慣れてしまえば気にならず、
顔が見えることは、対話には重要だと感じました。
今回は下記の四つのアクティビティに挑戦しました。
モヤモヤが、さらに新たなモヤモヤになる充実した時間でした。
「ほしいもの・ひつようなもの」
「子どもの権利」
「あなたはどこに立ちますか」
「こんにちは、日記さん」
内容については報告しませんが、私自身の気づきについて一点のみ記録しておきます。
福田弘先生の指導を数年前から私自身が受けるなかで、いくつも目を開かれる言葉に出会いました。
「一般市民の責任は、国がきちんとしているか否か、ひとりひとりがお互いに被害にあっていないかに気づき、解決しようとすること。その方法を学ぶのが人権教育の場だ」
自分の鈍感さが人を傷つけてしまうことがある。
それは誰しも経験のあることではないだろうか。
それを単なる罪悪感と名付けて心の中でわび続けることを、自分の経験上、否定することは出来ない。
だが、かわいそう、よりそって悲しもう、だけでは人権課題は解決されない。
人権教育では「人権感覚」は、涵養されていくものだと捉える。
「人権感覚」とは、
「人を尊重する現状を、よいものだと感じられる感覚」。
根源の一つは、人を傷つけた己の行為を不適切であると感じる心である。
感覚は、磨くことができる。
「たとえほんの1ミリでも、価値を実現することをよしとする姿勢」を身につけることは、可能である。
福田先生の言葉を借りれば
「この世界の人は、鈍いから、人を傷つけてしまう。しかし、人権感覚を磨くことで、見えにくかった人権課題が見えるようになってくる」。
点字ブロックの上に自転車が止められているのを目にした時に、「これはよくない」と気づくかどうか。
落とし物をした人に声をかけたら無視された時に、もしかしたら音が聞こえなかったかもしれない、と想像できるかどうか。
そして、気づいて、適切に行動すること。
だから、「心」と「頭」と「手」が、人権学習を象徴する。
先日の私自身の最大の気づきは、やはり原点は「心」なのだということだった。
準備の関係で、三日前までには申込みをお願いします。