「困っている人がいたら、助けに行きなさい」
ストーンと、当たり前のように言われた経験が、どれほどあるだろうか。
「困っている人がいたら、助けに行きなさい」
と
「誰かの役に立つ人間になりなさい」
「社会に貢献する人材に育ちなさい」
という言葉の間には、絶対的な距離がある。
高校生である友人に聞いてみた
「大人が、言葉で言うだけなのか、実際にやるのか、それを私たちは、けっこう見てる」
さざなみハウス「さざなみ 歩く学校」第1回の中で、あああ、と込み上げてきたのは、中尾会長が戦時中の学校の話をしてくださっていた時のこと。
教室には、いろんな級友がいた。先生たちは、すぐにこう言った。
「困っている人がいたら、助けに行きなさい」
だから、困っている人がいたら、助けに行っていた。
続けて中尾会長
「あんな苦しい中でも出来たのに」
当事者の人と、なんとなくしか知らない周囲の人がいるわけだが、
周囲の人の方が余裕があるはずなのに、
自分を守ることに一所懸命になっている、
というお話もあった。
なんとなく知ってる人たち
色々な方向からの、色々な情報、情報を得る方法もこれまた色々
受け取る重さや軽さも、、、、
そして、確定情報が無い、という状況
確定情報がない場面での振る舞い方を、私たちは本当に知らないのだろうか?
ノートにはメモがある
「教科書に載っていないことの学び方」
「成功体験・成功実績・成功者から学ぶことのみを学びのスタイルとすると、新しいことに向き合うことは難しい」
「システム・制度・アイテム・キーワードを作ることは多いけれど、実践知は?」
根拠はないが、もっともっとシンプルな何かが必要な気がする
「あんな苦しい中でも、困った人がいたら、助けに行った」
確定情報が無い場面での知恵を、
知らないわけではないのだ、と痛感した場面があった。
「もし万が一、もしかしたら、
よくない方向をどんどん想像して
不安になってしまったり、心配してしまったりして、
こんなに自分は心配しているのはなぜなんだろう、
ちょっと変になってしまったのだろうか?
と思ったりする。」
こういう思いを抱いている人は少なくないと思う。
このことばへのコメント(私のメモでは田村さんの)
「それが、杞憂に終わるように
杞憂になるために
これまでいろんな啓蒙をしてきている」
私はそう聞いた
メモが正確ではないかもしれないが、その横に自分の言葉で
「試されている」「信頼」「言動」とメモしている
日程の決まったテストではなく
実践知としての力を、世の中全体が試されていると考えたら
「杞憂」という言葉が、知恵に見えてきた
「杞憂」は、心配しなくてもよいことを心配すること。
単に取り越し苦労という意味で口にするのではなく、
今はもしかすると「杞憂」の応用が必要なのかもしれない。
未来を想像する、そこで心配する、不安に出くわす、過剰な反応をしながら、それでも不安がぬぐえない、ある部分では、過剰になる
それが過去のことになった時
「杞憂で終わってよかった」と言うためには
「過剰な反応」が「過剰であること」を自覚している必要がある
過剰になると、
疑わなくてよい人を疑ってしまったりする
心の中では、自己本位で残酷なことを考えてしまったりもする
自分に「過剰バイアス」がかかっていることを知ったうえで
あとからそれが「杞憂」になるように
「杞憂であった」と、ふりかえって把捉する
「病に対する寛容さ」を手放しそうになった感触を、忘れないようにする
恐怖で視野が狭くなった時の自分に気づくようにする
言葉には出来たが、果たして実行できるだろうか
中尾会長の
「あんな苦しい中でも出来たのに」
という言葉を
希望と受け止めたい
人権感覚とは
「人を尊重する現状を、よいものだと感じられる感覚」である
この感度を上げていく方法が、世の中にはある
できることは、あるのだから
やらない理由は無い