ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

あんな苦しい中でも出来たのに 【さざなみ 歩く学校】メモ

 

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「困っている人がいたら、助けに行きなさい」

ストーンと、当たり前のように言われた経験が、どれほどあるだろうか。

 

 

「困っている人がいたら、助けに行きなさい」

「誰かの役に立つ人間になりなさい」

「社会に貢献する人材に育ちなさい」

という言葉の間には、絶対的な距離がある。

 

 

高校生である友人に聞いてみた

「大人が、言葉で言うだけなのか、実際にやるのか、それを私たちは、けっこう見てる」

 

 

さざなみハウス「さざなみ 歩く学校」第1回の中で、あああ、と込み上げてきたのは、中尾会長が戦時中の学校の話をしてくださっていた時のこと。

 

教室には、いろんな級友がいた。先生たちは、すぐにこう言った。

「困っている人がいたら、助けに行きなさい」

だから、困っている人がいたら、助けに行っていた。

matsukawaeri.hatenablog.com

 

続けて中尾会長

「あんな苦しい中でも出来たのに」

 

 

 

当事者の人と、なんとなくしか知らない周囲の人がいるわけだが、

周囲の人の方が余裕があるはずなのに、

自分を守ることに一所懸命になっている、

というお話もあった。

 

 

なんとなく知ってる人たち

色々な方向からの、色々な情報、情報を得る方法もこれまた色々

受け取る重さや軽さも、、、、

そして、確定情報が無い、という状況

 

確定情報がない場面での振る舞い方を、私たちは本当に知らないのだろうか?

 

ノートにはメモがある

「教科書に載っていないことの学び方」

「成功体験・成功実績・成功者から学ぶことのみを学びのスタイルとすると、新しいことに向き合うことは難しい」

「システム・制度・アイテム・キーワードを作ることは多いけれど、実践知は?」

根拠はないが、もっともっとシンプルな何かが必要な気がする

 

「あんな苦しい中でも、困った人がいたら、助けに行った」

 

 

 

確定情報が無い場面での知恵を、

知らないわけではないのだ、と痛感した場面があった。

 

「もし万が一、もしかしたら、

 よくない方向をどんどん想像して

 不安になってしまったり、心配してしまったりして、

 こんなに自分は心配しているのはなぜなんだろう、

 ちょっと変になってしまったのだろうか?

 と思ったりする。」

 

こういう思いを抱いている人は少なくないと思う。

このことばへのコメント(私のメモでは田村さんの)

 

「それが、杞憂に終わるように

 杞憂になるために

 これまでいろんな啓蒙をしてきている」

 

私はそう聞いた

メモが正確ではないかもしれないが、その横に自分の言葉で

「試されている」「信頼」「言動」とメモしている

日程の決まったテストではなく

実践知としての力を、世の中全体が試されていると考えたら

「杞憂」という言葉が、知恵に見えてきた 

 

 「杞憂」は、心配しなくてもよいことを心配すること。

 

単に取り越し苦労という意味で口にするのではなく、

今はもしかすると「杞憂」の応用が必要なのかもしれない。

 

未来を想像する、そこで心配する、不安に出くわす、過剰な反応をしながら、それでも不安がぬぐえない、ある部分では、過剰になる

 

それが過去のことになった時

「杞憂で終わってよかった」と言うためには

「過剰な反応」が「過剰であること」を自覚している必要がある

 

過剰になると、

疑わなくてよい人を疑ってしまったりする

心の中では、自己本位で残酷なことを考えてしまったりもする

 

自分に「過剰バイアス」がかかっていることを知ったうえで

あとからそれが「杞憂」になるように

「杞憂であった」と、ふりかえって把捉する

「病に対する寛容さ」を手放しそうになった感触を、忘れないようにする

恐怖で視野が狭くなった時の自分に気づくようにする

 

 

言葉には出来たが、果たして実行できるだろうか

 

 

 

中尾会長の

「あんな苦しい中でも出来たのに」

という言葉を

希望と受け止めたい

 

 

人権感覚とは

「人を尊重する現状を、よいものだと感じられる感覚」である

この感度を上げていく方法が、世の中にはある

できることは、あるのだから

やらない理由は無い

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