ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

対話する哲学教室①「愛とは何か」を経て

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フジタマユさんの写真

 

対話の時間が、枠組みとして終わった後に、私たちは、その対話の前の自分に戻れない。

チャイムが鳴っても、休み時間になっても、けじめのつかない授業、考え続けることを止められない授業が、いい授業だと思っています。

 

松川えりさんの哲学教室は、そういう時間です。

松川さんは、なんだか、スイッチ入れたり、触発したりするんです。

 

プラトン、すっきりしてていい!夫と話してみます」

 

「愛をたくさん考えて、頭がくたびれたよ。いろんなことをモヤーモヤーと考えるのは、楽しくて、エネルギーのいることだね」

 

「教員として生徒を愛すること

 親として子を愛すること

 ヒトラーゲルマン民族を愛すること

 独裁的?独善的?、、独美的?、、モヤモヤ」

 

「魅力という言葉も気になる」

 

日常に戻って、自分の方法で、入ったスイッチに触発されて、動き出すこと。

フジタさんの写真は、その結晶のひとつです。

 

以下、フジタさんのFacebookより引用です

*** *** ***

今日の午後は「愛とはなんだろう」と、みんなで考えるために出掛けた。

愛。そして、美のことも考えた。
例えば「愛は美しい」と言われると、何の話?とは思っても、何となく分かる気がする。
逆に「美しさは愛だ」となると、そうなのか、どうなのか。なんなのか。
美は愛されるもの?
美を愛さずにはいられない?
美人は好かれる。愛される。
なぜなら、美しいから……分かるような、分からないような。
なんなの。プラトンは何が言いたいの。
考えながら、ふと視線の先に見つけた「写真を撮りたい」と思った風景。
そうか、そう言えば、私が撮りたいと思う風景には、美がある。いや、愛がある。いや、どっちだ。
しかし、撮りたいと見つけたものを、美しいと思うことに間違いはなく、愛があるとも感じる。何でも撮っているわけではない。
プラトンの言っていることは、こんな感覚?
私は写真を撮る。毎日のように撮る。
記録として撮ることもある。
仕事だから撮ることもある。
しかし、撮らねばならないときも、そこに美を探す。そこにある愛を撮ろうとする。
撮りたいから撮るときは、もちろん、美を見つけたから撮る。そこに愛も見える。
私が愛する、というよりは、そこに愛があることを見つける。そこにある、愛を撮るのだ。
そういう意味では、世の中至るところに愛があると思う。
一般的に、愛とは?と問われると、男女間、夫婦、親子の関係などが浮かぶのかもしれない。
そして「愛」ではなく「愛する」という動詞のイメージになるのだろうか。
動詞になると、私にはどうもピンとこない。普段「愛しています」なんて感情が湧き上がることはないように思う。
「愛する」を「大切に思う」に置き換えればという話が出たけれど、うん、それなら分かる。
しかし私は「愛」というモノになれば、それはよく感じている。
写真を撮ることもそうだけれど、よく「この人は愛のある人だなぁ」と思うことがある。
あの人も、あの人も。
「愛が溢れてるわ」「愛が深いわ…」と感心している。
誰にでも思うことではない。
しかし「じゃあ、愛を持たない人はいるのだろうか」と考えてみると、私が深く知らない人でも、愛がない、とも思えない。
そういう意味でも「愛」はいろんなところにある。
音楽を奏で、人を楽しませたい、元気づけたいと思うことも、愛だと思う。
人と繋がり、語ろうと思い行動するのも愛だ。
自分の中に、愛があるかは分からない。
ただ、自分は愛を知っているとは思う。
愛とは何かを考えながら見つけた、写真を撮りたいと思ったのが、こちらの写真。
見たらすぐ分かる、美しい人でもなく、咲き誇る花でもなく、真っ赤に輝く熟れたトマトでもない。
これは、私にしか見つけられない美と愛、かもしれない。
プラトンはこのことを言っているのだろうか。
それとも、全く的外れだろうか。
愛とは何かを考え、話、笑っていたら、いつの間にか体調も落ち着いて、来たときよりも元気に帰る。
そして、この時間と場所にもまた、愛があったと思う。
*** *** ***
 
石牟礼道子さんの「魂の深か人」を思い出す。
そして、愛はどこにあるのか。
 

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第2回の日程が決まり次第、お知らせします!