ワタクシの片恋の話です。
月読の
光に来ませ
あしひきの
山きへなりて
遠からなくに
「お月様の光をたよりにおいでになって下さいませ
山がたちはだかって遠いというわけでもないのに」
男を待つ女の立場を装って詠んでいる。
湯原王は「ゆはらのおおきみ」、月読は「つくよみ」。月がカレンダーだったことを色濃く感じさせる。歌は、月見の宴で即興と考えられている。この後、その場にいた誰かが和した歌は、男の立場を取って「月読の光」に応えて「心の闇」を持ち出してくる。
月読の
光は清く
照らせれど
惑へる心
思ひあへなくに
作者未詳『万葉集』巻四・671
「なるほど、お月様の光は清らかにそそいでいますが、
千々に乱れる心の闇に先が見えなくなって、
ふんぎりがつきかねているのです。」
伊藤先生の解釈は、恋心を詠い合う、宴席での当意即妙のやりとりを味わうべし、とのことであるし、ずっとそういうのが素敵だと思っていた。しかも湯原王、なぜ女のふりをするんだ?詠ったあとに「なんちって」とでも言うたのか?ああかっこいい、かっこいい、と思っていたのでありました。
ところが、今、「先が見えなくなって」「ふんぎりがつきかねる」という伊藤先生の訳に、思わず唸ってしまう。
30年後の中秋の名月の折に、こんなことが起きることを、先生は想像すら、、と思いかけて、湾岸戦争が勃発し、映像がテレビの画面に届いた時に、伊藤先生は憤怒のあまり倒れられたと聞いたことを思い出した。そもそも、前提として、月夜の宴に馳せる思いは、私なんぞとは全く異なる感慨であったに違いない。深い思索や、誠実すぎる人生を経た人間が古典の中に入り込んで語る言葉の地層には何があってもおかしくない。文学は百年先を見てしまう、とは恩師の言葉である。いずれにしても、人生が追いつかない。ここでマンガのフレーズから「狼に追いつかない」と連想するのが今の自分である。
結果、湯原王に、もう25年以上片思いである。
月の光、姿の見えない鳥の声、透明なもの、手に取ることの出来ないものの歌に魅了されてしまい、なんとか別の自分の言葉でそれを意味づけたい、説明してみたいと躍起になって、空回りしつづけた。
宴の歌だから、きっと声に出して詠じられたのだろう。どんな声だったんだろう。どんな語り口の人だったんだろう。女の声を真似たのだろうか、それとも誰か女の声を持つ人が隣で詠み上げたのだろうか。
忘れられない歌は、なぜか、一度で耳に入ってくる。
「ツクヨミノヒカリニキマセ」は、現場で詠み上げられた時、場の人の耳を奪ったのではないだろうか。いい声だったに違いない、と根拠無く断定して、妄想を終える。
今日は、月を見ようと河原までトボトボ歩いたが、しばらく待っていたら雲のスキマに月が出てきた。ああ、こういうときに、誰か一緒に月を見る人がいたらいいなあ、と思ったら、こんなことを思い出してしまった。
私の推しは二次元ですらない、のであった。