「駆け落ち」>「心中」(私のスタンス)
岡山NPOセンターの「はじめてのパブコメ」のスピンオフ的なものとして、12月21日締切のパブコメについて気楽に話した会です。第3次岡山県自殺対策基本計画(素案)のことを取り上げました。
実際の文書を見たのは最後の5分間。ほとんどは「死を選ばない」という言葉を発端に、3人でおしゃべりをしました。身近な話、物語の話、学校の話、隣人愛や人権の話、自己愛のこと、学ぶのは自分だけのためではないのだということ、すぐに決めなくていいし自分で選べること、投げ出してもよいものがもっとあること、話を単純化しない方がいいということ、誰にも邪魔されない場所を探したくなること、強くて短い衝動にとりつかれてしまうことや、目覚めることがあること、自分が悪いと思い込むこと、話をすることに意味があると思いたいという気持ち、選択肢が多いことを知らない、知らされないこと、人を大切にする方法を学ぶこと、「一人でも多く」ではなく「一人ひとりとして」、「命が大切」より「あなたが大切」、「角幡唯介」、、、、、、、ここ数年の色々な経験や、誰かとの対話をたどりながらの対話になりました。不思議と重苦しい雰囲気にならずに話せたのは、優しさや思いやりだけではない考え方や、言葉を探していたからかもしれません。あとは、それぞれで、やりましょう。
とはいえ、どうしても一点だけ、この文章を読んで下さっている方に伝えたいことを書きます。この岡山県の基本計画には、数値目標が示されています。そこにはこうあるんです。
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自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)
令和元年:14.3% ⇒ 令和7年 : 13.0%
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我が眼を疑いました。
基本計画の冒頭に示されている基本理念にはこうあるんです。
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基本理念
「誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現」
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それならば、目標は、0%です。
いえ、0人です。
そうあるべきです。
なぜなら、誰も追い込まれることのない社会だからです。
それに「追い込まれる」、なぜ「受け身」表現なのでしょう。
文法上の主語は「追い込まれる人」、
社会を実現するのは「我々全員」。
わざわざユルユルっとした日本語を使ったことには理由があるのでしょうか?
基本計画には、我々が「標榜」するものとしての性格を期待します。
当然、それが「我々の不断の努力無しには実現しないもの」という自覚のもとに、です。
設定期間中に数値目標を達成できないとまずいから、期間中に達成出来る目標の数値を書いておくということが目標というような考えには、とてもではないが私は賛同出来ません。
今回のパブコメ募集の詳細はこちら
■第3次岡山県自殺対策基本計画(素案)
回答締切:~12/21(月)
⇒https://bit.ly/33vdMCj
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