ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

咲かない花とゴッホ  歌の言葉

磯の上に

生ふる馬酔木を

手折らめど

見すべき君が

在りと言はなくに

     大伯皇女

 

  いそのうへに

  おふるあしびを

  たをらめど

  みすべききみが

  ありといはなくに

 

岩のほとりに生えている馬酔木を手折ろうとはしてみるけれど、これを見せることのできる君がこの世にいるとは、世の人誰もが言ってくれないではないか

 

大伯皇女(おおくのひめみこ)が「君」の死を悼む挽歌。

萬葉集』巻二・一六六番。訳は伊藤博萬葉集釈注』による。

 

馬酔木が満開の小道を通った。

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実に、残念な撮影技

しかし

この大伯皇女の歌には「咲いている」という表現がない。馬酔木と言う植物の実態を見直すことに立ち返り、この馬酔木は咲いてはいないと捉えた解釈に驚く。

 

 

「馬酔木は、小粒のつぼみを無数につけ、それを蓄えたまま秋から冬を過ごす」

「つぼみをつけたまま長い秋と冬とを越すあしびは、それこそたくましい生命力の充実を示して、花のない冬の時期の『採り物』に最適といえよう」

「人皆がするように、すべての生命の栄えを願って、路傍のあしびを手折ってみようとする」

「悲しみは冬のあしびに極まり、そして定まったのである」(渡邉護『万葉挽歌の世界』)

 

 

つぼみのまま越冬する馬酔木は、生命力を象徴する。

それを手折ったところで、見せる人は、もういない。

大切な「君」の死を確認することになる瞬間を、自ら歌った一首である。

「咲いて散る」花だけが悲しいのではないことを痛感する。

  

 

 

「君」は、弟である大津皇子

折口信夫死者の書」の、あの大津皇子である。

 

生きて、死者を送ることは、悲しい。

ゴッホの手紙に、少し救われる。

 

 死者を死せりと思うなかれ

 生者のあらん限り

 死者は生きん

 死者は生きん

 

大伯皇女の千五百年前の歌。

 

 うつそみの

 人にある我れや

 明日よりは

 二上山

 弟背と我れ見む

 

明日から、現実のこの世で、自分は生きていくという覚悟がここにある。

明日からは、悲しみながら生きていくと決めること。

それは、悲しみを乗り越えることではなく、悲しみを抱えながらそのまま、のどの渇きを忘れずに生き続けることだ。

歌はそれを教えてくれます。

 

 

それにしても

植物はめまぐるしい。
一年の間にめまぐるしく変化する生命である。
動物と違って、身動きが取れないから、その姿を雨や風や日差しにさらしたまま。
季節がめぐれば、その影響を逃げもせずに受け止める。
堂々と生きている植物を前に、挙動不審にしか振舞えない。
ヨロヨロ

そう思うと、「植物」という言葉は、乱暴だと申し訳ない気持ちになる。

ナウシカが「森」と言っていたことを思いだしたりして。

 

ちなみに

大伯皇女は、邑久(岡山県)で生まれたと言われている。

だから、「おおく」という名前。 

言葉のおかげで、昔と地続きであることを実感できます。

言葉をつないできた人々に感謝です。

 

【追記】写真の花は、馬酔木ではなく「どうだんつつじ」でした。

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