磯の上に
生ふる馬酔木を
手折らめど
見すべき君が
在りと言はなくに
大伯皇女
いそのうへに
おふるあしびを
たをらめど
みすべききみが
ありといはなくに
岩のほとりに生えている馬酔木を手折ろうとはしてみるけれど、これを見せることのできる君がこの世にいるとは、世の人誰もが言ってくれないではないか
大伯皇女(おおくのひめみこ)が「君」の死を悼む挽歌。
馬酔木が満開の小道を通った。
しかし
この大伯皇女の歌には「咲いている」という表現がない。馬酔木と言う植物の実態を見直すことに立ち返り、この馬酔木は咲いてはいないと捉えた解釈に驚く。
「馬酔木は、小粒のつぼみを無数につけ、それを蓄えたまま秋から冬を過ごす」
「つぼみをつけたまま長い秋と冬とを越すあしびは、それこそたくましい生命力の充実を示して、花のない冬の時期の『採り物』に最適といえよう」
「人皆がするように、すべての生命の栄えを願って、路傍のあしびを手折ってみようとする」
「悲しみは冬のあしびに極まり、そして定まったのである」(渡邉護『万葉挽歌の世界』)
つぼみのまま越冬する馬酔木は、生命力を象徴する。
それを手折ったところで、見せる人は、もういない。
大切な「君」の死を確認することになる瞬間を、自ら歌った一首である。
「咲いて散る」花だけが悲しいのではないことを痛感する。
「君」は、弟である大津皇子。
生きて、死者を送ることは、悲しい。
ゴッホの手紙に、少し救われる。
死者を死せりと思うなかれ
生者のあらん限り
死者は生きん
死者は生きん
大伯皇女の千五百年前の歌。
うつそみの
人にある我れや
明日よりは
二上山を
弟背と我れ見む
明日から、現実のこの世で、自分は生きていくという覚悟がここにある。
明日からは、悲しみながら生きていくと決めること。
それは、悲しみを乗り越えることではなく、悲しみを抱えながらそのまま、のどの渇きを忘れずに生き続けることだ。
歌はそれを教えてくれます。
それにしても
植物はめまぐるしい。
一年の間にめまぐるしく変化する生命である。
動物と違って、身動きが取れないから、その姿を雨や風や日差しにさらしたまま。
季節がめぐれば、その影響を逃げもせずに受け止める。
堂々と生きている植物を前に、挙動不審にしか振舞えない。
ヨロヨロ
そう思うと、「植物」という言葉は、乱暴だと申し訳ない気持ちになる。
ナウシカが「森」と言っていたことを思いだしたりして。
ちなみに
大伯皇女は、邑久(岡山県)で生まれたと言われている。
だから、「おおく」という名前。
言葉のおかげで、昔と地続きであることを実感できます。
言葉をつないできた人々に感謝です。
【追記】写真の花は、馬酔木ではなく「どうだんつつじ」でした。