高円の
野辺の秋萩
いたづらに
咲きか散るらむ
見る人なしに
萬葉集 巻二・二三一
季節外れの歌ではありますが、第三句から後の表現を思いださずにいられなかった春の午後でした。青空の下で、満開の桜が風に舞います。
志貴皇子挽歌と呼ばれる笠金村の歌群の一首。現代語に訳さなくても伝わるのは、それを私たちに理解させる現実が目の前にあるからなのかもしれない。
志貴皇子が亡くなって直後の妻の作と言われるのは次の歌(伊藤博『萬葉集釈注』)
高円の
野辺の秋萩
な散りそね
君が形見に
見つつ偲はむ
(巻二・二三三)
「秋萩よ、散らないでおくれ」と萩の花に呼びかけるひそやかな呼吸が、夫への思慕を表して悲しい。
それから一年後に、笠金村が遺族から要請されて、この歌を取り入れて歌った。こまやかな心遣いを込めて成した歌である、と伊藤氏は解釈する。
歌によって結ぼれた心を解きほぐす営みに、万葉集を読むと時折出くわします。
歌の言葉に、泣きそうにこみ上げる瞬間があり、その時に動いているものが「こころ」なのだろうと気づいて、「こころ」の存在を実感します。コロコロと転がるから「こころ」というのだと聞いたこともあります。
「見る人なしに」は学生時代から心揺さぶられる言葉でした。たった七音の言葉ですが、これが千五百年を経て、今、ここ、に届いていることに驚きます。
そういえば
『ライムライト』の中でも、ヒロインが「私なんて生きてる意味がない」みたいなことを言うのに対して、チャップリンは「生きてることに意味なんてあると思うのか?」というようなことを言うんです。「バラは咲いていて美しいけど、あれは別にヒトを感動させるために咲いているんじゃなくて、ただ生きてるだけ。それが美しいんだよ」というようなね。(太田光『カラス』)
「見る人なしに」こそ、むしろ美しいのかもしれないと思ったのを、思いだしました。
花はどうして美しく咲くんでしょうか。
不思議です。
空はどうして青いんでしょうか。
海もどうして青いんでしょうか。
羊はどうして顔に毛がもじゃもじゃ生えないんでしょうか。
悲しいと涙が出るのは、どうしてなんでしょうか。
いろんな説明を聞きますが、いつもわからなくなります。不思議です。
「どうして」という疑問詞の選び方に原因があるのかもしれません。
疑問詞を変えると、違うことを考えることができます。
時間は、たくさん必要です。
大切に時間を過ごさねば、と気づきました。
今日は素晴らしいいタイミングで、ヤマガラがやってきて、ツツピーツツピーと、いい声で啼きながら、棉で遊んでくれました。
ツツピーツツピー
見る人ありて
棉あそび
そろそろ雨の知らせがありそうです。
残念、という言葉は、こんなときのためのものだったか、と気づきます。