根拠のない「空気」に支配されることなく、
自立して考えるためにこそ
「学び」はあるのだと思います。
森田真生氏 Twitterより
昨夜のスロウな本屋『エリア随筆』読書会。ヨタヨタと進み続けて、第四回。
語り手エリアが、筆者ラムが、自分の目で見て、自立して考えて、自分の言葉で書いた文章を読んでいたのだ、ということに、森田さんの言葉によって、改めて気付かされた。
「誰かの心に適うこと」に、静謐さのなかで祈りのようにめぐり合い、沈黙の中にそっとその言葉を放つ人は、不特定多数に向けた無責任な発信の対極にいる。
「わかりあえない豊かさ」
「愚か者、という言葉の意味」
端的で一面的な評価や偏見はわかりやすい。だが、よく見て、よく読んで、よく考えてみると、他の色や他の捉え方が、見えてきたりする。
「ボウズ憎けりゃ、、、」になりがちだが、自分の眼中にないもの、明言されていないものを、想像してみよう。すると、都合の悪いものも、見えてきてしまうかもしれない。
話せばわかると信じたいけれど、対話のプラスの価値だけではなく、その成立の困難も対話自体の本質であることを忘れてはいけない。
ああ、めんどくさい。
と思いつつ、この言葉の意味も「愚か」「馬鹿」のように豊かなものだと、教えてくれる宮崎駿氏の言葉。
「大切なことのほとんどは、めんどくさいことで成立している」
めんどくさいものに対する敬愛、それを作文する時、文体の及ぼす影響は大きい。
書く題材のことをよく考えて、かつ、言葉を読者に届けるために、文体は慎重に選ばれているはずだ。
ユーモア、語り口、構成、本歌取りのような引用、、、。ペンを手に、コピーもペーストも出来ない紙の上に、選ばれたものが放たれてゆくプロセスを、想像する。
毎回、この読書会の後は、寝るのが惜しくて夜更かししてしまう。考えたことのないことに出会うからだ。この学びに、感謝である。