ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

実習記録「表現あそびの会」11月17日

烏丸ストロークロックの阪本麻紀さん、二度目の岡山WS。
細かい内容というより、吸い付けられた人々の記録になっています。

f:id:yononaka-jsh:20191119172344j:plain

**「こどもの会」の記録*****

 目を合わせる
肩に触れる
声をかける
耳を澄ます
相手をよく見る
自分で決める

 

ひとつ一つの行為が、身体と言葉の回路をつないでいく。
マッキーが、ふとボールを使う。
それまでお母さんにしがみついていた人が、両手でボールを握り、相手に渡した。渡せるものを手に入れたことによって、彼の「受け取りたい、渡したい」という気持ちが形になった。いきなり唐突に周りの人にわかる形で、出てきた。

 

そこに「モノ」があることで、つながることができた。
ワークの説明の時に、マッキーが「ものを使って、お話を作ったり、……」と言っていた意味は、想像よりはるかに具体的で、深い所で人を触発するものだった。

 

さらに言えば、表に現れた「受け取りたい、渡したい」彼の気持ちに対して、こどもたちの反応は早く、それまでやりとりがつながりにくかった彼と、こぞってボールのやりとりを重ねていく。出来ないことが出来るようになると、こどもたちは出来ることを自分たちのものにして、自分の力で楽しみ始めた。

プロセスを目の当たりにした大人一同から、溜息がこぼれる。

 

そこからは、マッキーの真骨頂。
こどもたちの「想像力」への挑戦。
マッキーは安全策を取らない。
最初から、丸いボールを「目覚まし時計」に見立ててしまう。
夜から朝のお芝居を、自分自身で、して見せた。
既にこどもたちは釘付けである。釘付けとは、頭の中がフル回転している状態。説明をしなくても、何をしようとしているか、こどもたちには既にわかっている。
丸いボールを手に「これは何かな」、こどもたちが全員声をそろえて「とけい」と答える。中には、家に目覚まし時計の無いご家庭もあったそうな。
こどもたちは、知らないはずのことを、わかっていた。

 

お手本のあとは、ただのボールを次々と見立てていくこどもたちと、それを軸に表現の形を作っていくマッキー。
太陽、夕日、ハム、ウインナー、サッカー、ピクニック、おやすみ、おはよう、いただきます、ごちそうさま、、、
それぞれに物語が生み出される。
その物語は、文字やことばで語られるのではなく、身体とやりとりで完成されていく。
「どうしよう」と悩むスキはない。どんな思いつきも、身体を動かせば、そこに実現され、物語が紡がれていく。ああ、毎日を生きていることって、とても尊いんじゃないのかしら。

 

ここは、ただの長屋の一室であり、

君たちがキャーキャー言っているその赤いものは、ただのゴムボールだよ。

f:id:yononaka-jsh:20191119172336j:plain

 夏の表現あそびの会は、小学生以上と未満を別クラスにしていた。今回はそれが一緒くたである。3歳なりたてさんから、表現力も意欲もあふれる小学2年生まで、多様なかれらが一緒に過ごす60分は、言葉で指示を出したところで進むような話ではない。60分の時間の中で、初対面の相手に対して、進行しながらワークの組み立てを柔軟に微妙に修正しつつ、全員を明るく巻き込んだ上で、なおかつ「想像する」の要求は下げない、そんな場を朗らかに作りだせる人が、「マッキー」であった。

 

 朝の簡単な打合せの時にも、どういうプランで進めるか悩んでいる。ノートを見つめながら、何かを書き込んでは、また見つめる。何を使うことになるか、と考えることによるのか、大きなスーツケースに様々なグッズを詰め込んで、京都から現れた。誠実な配慮の人だからこそ、成り立っている時間。


 伝言ゲームの時に、絵本を繊細に表現した彼が忘れられない。その目線や指先、絵本を読んでいる彼の姿は、美しかった。絵本の紙、文庫本の紙、たしかに違うわ、と気づかされる。この静かな時間を、もう少し見ていたい、と外野が思ったところで、タイムリミット。

 

**「おとなの会」の記録*****

f:id:yononaka-jsh:20191119172356p:plain

「呼吸を使う」


日常的には、あまりしない行為を丁寧に重ねる。
息を意図的に止める、
こんなふうに吐こうと思って、そんなふうに息を吐く、すると身体の動きが連動していく不思議。

 

「呼吸でこんなに変わるのか」と驚く。
普段、自分自身がよく息を止めていることに気づいた人
感じ方の違いを面白がる人
空気を「読むというのではなく、感じる」ととらえた人
自然に相手の反応が見えてきた人
あまりの変化に、近くで遊んでいたこどもたちが駆け寄ってきた人
呼吸を表現に使うと、理屈抜きにダイレクトに伝わってしまうことを思い知る。

 

自分の呼吸を使い、呼吸の変化に伴う動作の変化に気づいてから、最後のワークではコンタクトを呼吸のみで、取ってみる。
動作の形だけを合わせればコンタクトが成立するわけではない。最初の出会いが嘘だと、呼吸のアクションまでたどりつけない。嘘の感情は、嘘でしかない。見ている側には通じない。丁寧に慎重に歩み寄ることで、リアルに出会った二人の存在が客席に届くと、そこからは呼吸の出番。

f:id:yononaka-jsh:20191119172403p:plain

何をしようとしているかを、全部知っていて、それぞれのペアが同じことをしているのに、どうしてこんなにも、それぞれを面白く感じるのだろう。同じことをしているのに、毎回、こちらも息をつめて見つめ、引き込まれ、笑ってしまう。
そこにはセリフなんて、ひとつもなかった。私達は、ストーリーのすばらしさに感動しているとは限らない。視たこともないような新奇なものに驚いてのけぞっているとは限らない。何度も見たことがあるような、当たり前に経験したはずのことは特に、実はよく見えてはいなかったりする。知ったつもりで知らない経験を、単語ひとつで腑に落ちた気になっている。なんと無防備な。

 

「待つ」という行為を表現する難しさを、前回のワークで教えてもらった。「ただ待つ」身体で舞台に長く居続けることは難しそうだ。けっこう待って来たつもりだけれど、どうやって待っていたのかは、あまり覚えていない。
その上、待ち合わせが不要な便利日本では、別次元で「待つ」の獲得の困難が、表現の難しさに拍車をかけるのではないだろうか。みんなもっと、待ちぼうけようではないか。

 

途中で、ひたすら歩く時間があった。身体をほぐして、歩いて、意識を意識して、すると不思議なことに、皆さんの動きがスルスルしてくる。二足歩行が上手になっていると言った人もいた。先日のラジオでの精神科医の名越先生の言葉「二足歩行するとき、人間はかなりエネルギーを費やしてバランスを取っている」が去来する。
偶然の遠回りかもしれないが、ひとつずつの動きに丁寧に集中していくと、いろいろなことを思い出す。目的のために合理的に脳ミソで身体を操作するのではなく、身体そのものの優位性に感動する、と言ったらよいだろうか。

 

某所の某テストは、人間の特定の行為を動作レベルで細かく区分けして分析し、それらの動作をある定型の分類に従ってフローチャートに落とし込み、無駄な動作を省略することによる合理的な作業のための動作の連続を絞り出す、という課題。人間の行為の動作レベルでの合理化は、時間を短縮して利益を上げるための方法として採用されることを前提としている。
無駄を削り落とした人間の動きがもたらすのは、いったい何だろう。

辞書を引いていると、お目当ての単語とは別の様々な単語が誘惑してくる。こどもの頃から、ずっとそれは変わらない。最短距離を選ばないことの楽しさは、やめられない。「ねらい5割、副産物5割以上」というスタンスを、変えるつもりもない。

 

今回は、お子さん連れで参加して下さった方がいる。阪本さんも他の参加者の皆さんも当たり前のこととして、こどもが居る場でのワークを一緒に作ってくださった。とてもよい雰囲気であったと思う。いろいろな場を作れるようになりたいものだ。

 

「この会は、続けていかねば」と意を強くした、2回目の「表現あそびの会」。繰り返すことと、続けることは、別の営みであるという、当たり前のことに気づくことになりました。

 

阪本さん、ほんとうに、ありがとうございます!!

 

夏の様子は、こちらからどうぞ。

yononaka-jsh.hatenablog.com