ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

哲学カフェに触発されて

10月19日の哲学カフェ「世の中ってどこにあるの?」は、まだ続いている。先に転載したクニ∞∞ミユキさんの文章を受けて、参加者のおひとりから、自分も考えてみた、という作文をいただいたので、ご紹介する。

 

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私も何かしら、一応の結論というか、
自分なりの解答を出しておきたいなーと思ったので、
お暇のある時に暇つぶしにでも読んでいただけると嬉しいです。

 

哲学は全然詳しくなくて、
高校の世界史で習った知識のうろ覚えしかなくてとても恥ずかしいのですが、
イデア論」っぽく考えたらどうかなぁと思いました。

 

「世の中」は不特定多数の集まりのはずなのに、
「世の中を知らない」という言い回しの「世の中」は、あたかも一つのもののであるようで、また、自身も含まれていないように感じます。
それは、ここではないどこかにイデアがある、つまり完成形としての真の「世の中」がどこかにあって、話す人それぞれが思い描く「世の中」があるのかなと思います。

 

どこまでいっても追いつかない理想としての「世の中」なので、
勿論、語り手自身もそこには含まれず、あくまで想像上のものです。


完成形としての「世の中」だからって、それはキレイなものとは限らず、マイナスの要素もあります。抽象的な概念としての「世の中」です。
これだと、自分と「世の中」は交わることはありません。

 

 

一方、「世の中に出る」という言い回しは、
(元は世の中にいなかったかもしれませんが、)自分も「世の中」の構成員の一員です。

 

我々が実際にいる次元の「世の中」は現実なので、未完成でごちゃごちゃしていて、完璧からは程遠いです。
不条理なことも多いです。
真の「イデア」に対する、偽の「世の中」が今私がいる世界です

 

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今回のテーマは、答えを出すために選ばれたものではないので、モヤモヤが残ることは大歓迎であるし、そうしたことの中で、じわじわとこのようなリアクションをいただけることには元気をもらえる。そして、世の中、どこにあるんでしょう。

 

ここ数か月、現実に触れる人との出会いの豊かさに反比例して、「自分がこれまで抱いていたイメージのなかにある、正しくて必要だと思って来たものごとは、ほとんどファンタジーである」という打撃のような確信に呼びかけられ続けている。立ち止まって、どんな羅針盤をたよりに歩き始めればよいのだろう。

 

それでも、知性が知性を刺激している、という言葉で言い表すに相応しい関わりが、目の前でつながったことを記録にとどめておきたいと思う。

知らないほうが簡単だった、とは思う。が、知らないほうがよかった、とは言わずに過ごしたい。未来に対する希望は、現在の感情である。