ヨノナカ実習室 実習予告と記録

調理実習や木工実習のように、対話や表現や交流の実習を行う場所「ヨノナカ実習室」の、実習予定や記録をお知らせするページです

「無責任編集雑誌の会」100日を経て

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無責任に覚えあり、という猛者を募集してから、はや100日。

実際の皆さんの無責任っぷりを、少しだけ報告いたします。

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執筆の進捗が、3.7%。

7年かかるという計算になりました(ヨノナカ実習室算出)。

校了の暫定予定は2027年です。

美人薄命の自覚の強いアナタも、長生きして下さい。

そして読んでください。

 

 

ちなみに

中身を見ると、ほんとうに面白がって下さっているのが伝わってきます。

はっきりいって、面白い。

無責任な皆さんの頭の中は、非常に豊かです。

とりまとめをしていると、実に面白い表紙や目次、編集方針に出くわします。

開いた時の感動のために、内容に関する情報は、完成するまで公開しないと決めているのですが、誰かに話したくてウズウズしています。

イベントなどで、ヨノナカ実習室へお越しの方には、ちょっとだけ、お見せします。

なんて無責任な企画でしょう。

 

 

実は「無責任だより」も、かなり無責任で、前回の修正版もグダグダでした。参考までに、ここにくっつけておきます。

 

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yononaka-jsh.hatenablog.com

 

対話する哲学教室 第2回「嘘をつくのはいつも悪いことか」11月29日(日)!

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対話する哲学教室 第2回
 嘘をつくのはいつも悪いことか
 
*満席となりました。
 キャンセル待ちで受付ております。
 
「哲学、気になる。
 実は学んでみたい」
「哲学者の思想を
 わかりやすく教えてほしい」
そんな声におこたえして、哲学教室を開きます
 
【第2回テーマ】
 「嘘をつくのはいつも悪いことか」
 嘘は絶対にダメ?それともケースバイケース?

 哲学者の思想を学びながら、受講者同士の対話を通じて考えましょう
 
【講 師】
  松川 えり
学生時代より哲学カフェの活動を始め、哲学対話を実践・サポートする団体「カフェフィロ」を設立。大阪大学コミュニティデザイン・センター特任研究員を経て、フリーランスの「てつがくやさん(哲学プラクティショナー)」に。
岡山を拠点に、カフェ、公民館、福祉施設、病院、学校などで哲学カフェや対話ワークショップの企画・進行を行う。
共著として『哲学カフェのつくりかた』『この世界のしくみ 子どもの哲学2』など。
 
【テキスト】
 『中学生からの対話する哲学教室』
   2012年 玉川大学出版部
アメリカの中学・高校で使用されている哲学の教科書の日本語訳。
愛、正義、環境、人生など、各章のテーマごとに、対話編と哲学者の思想解説を掲載。初学者が哲学を学びやすいように工夫されている。
*テキストは希望者に当日販売予定です。
(2,640円)
 
【お願い】
 当日、発熱や咳などの症状がみられる場合は、ご来場をお控えください。受付にて検温を実施、37.5℃以上の場合は、参加をご遠慮願います。ワークショップ中にはフェイスシールドなどをご利用いただきます。お越しの際は、マスク着用でお願いいたします。
 
 
講 師 松川えり(てつがくやさん)
日 時 2020年11月29日(日)
    13:00~16:00
場 所 ヨノナカ実習室
     岡山市北区南方2-9-7
定 員 9名
参加費 2,000円
 当日テキストご購入の方は1,500円
 テキストご持参の方は1,800円
 
申 込 ヨノナカ実習室までメールで申し込んでください

Facebookイベントページ「参加予定」は、申込になりません。
✉ ⇒ wassignol.297@gmail.com
①参加者氏名
②住所
③電話番号
④テキストについて
(購入予定、持参予定) 

 

ちなみに

第一回「愛とはなにか?」はこんな感じでした。

matsukawaeri.hatenablog.com

yononaka-jsh.hatenablog.com

 

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「いっちょかみ」で行こう!【はじめてのパブリックコメント】参加者募集中

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これほど豊かになって、これほどしあわせにならなかった国はめずらしい。

 (池内紀〈おさむ〉)
www.asahi.com

 この言葉。刺さります。

 

 

そんな秋、はじめてのパブリックコメント、始まりました。

単発での参加も可能なので、次回10月19日(月)19時、表町のNPOセンター会議室という、かなりわかりづらい場所へ、是非お越し下さい。

第一回で、伝えたかったことのひとつを、これから参加を考えるアナタのために、ピックアップしておきます。

 

この会には、専門家は一人も居ません(今のところ)。

「半ちく野郎」「一知半解」「いっちょかみ」の集まりです。

なんとなく、私なんかが、パブコメなんて、そんなことを言いそうなアナタは、内田樹氏の言葉に勇気をもらいましょう。

** ** ** ** **

president.jp

素人があれこれ言ったっていいじゃないですか。言わせてあげたらいいのに。

日本では「半ちく野郎」とか「半可通」とか「一知半解」とか、「半」という字がつく罵倒の言葉が多いんですよね。中途半端な知識に基づいてものを言う人間を徹底的にバカにする。「よく知らないけど、俺はこんなふうに思うんだよね」と言うと、自称専門家が「黙ってろ、素人は!」と頭ごなしに叱りつける。叱られたら黙る。専門家だけが発言権を持ち、それ以外の者は知らないことについては黙る。自分の経験や知識に基づいて、個人的な意見を述べることは「許されない不作法」ないし「笑うべき愚鈍」と見なされてきた。


でも、それっておかしいと思う。半ちくな素人の思いつきがときに思いもかけない創見をもたらすことって実際にあるから。

 

それに僕自身、自慢じゃないけどレヴィナス哲学と合気道以外は、全分野で半ちく野郎なんです(笑)。文学も、映画も、マンガも、能楽も、宗教も、政治も、さまざまな領域でたくさん本を書いていますし、インタビューされたら意見を述べますけれど、どの分野でも専門家というのにはほど遠い。

 

ただ、「このトピックについては、あんまりよく知らないんですけども、ちょっと意見言ってもいいですか?」って、つい手を挙げたくなるんです。

 

ちょっと何か言いたくなるのは、僕が思っていることを専門家が誰も言わないからです。誰かが先に言ってることなら僕が繰り返す必要ないです。誰も思いつかないようだから、つい手を挙げて言ってみたくなる。別に定説を覆すとか、常識に冷水を浴びせるとか、そんな攻撃的な意図があるわけじゃないんです。

 

ただ、「こういうふうに考えたら、ちょっと面白くないですか?(よう知らんけど)」というだけのことで。

** ** ** ** **

内田先生に習いましょう。

「いっちょかみで行こう!」

 

前回参加していた学生さんも「半ちく野郎」「いっちょかみ」が、気に入って下さっていたようです。

 

とはいえ、一人では、なかなか「いっちょかみ」も、がんばれないんです。

さらに元気が出る、柄谷行人氏の言葉が上西充子『呪いの言葉の解きかた』に載ってます。 

*** *** ***

私はデモに行くようになってから、デモに関していろいろ質問を受けるようになりました。それらはほとんど否定的な疑問です。たとえば、「デモをして社会を変えられるのか」というような質問です。それに対して、私はこのように答えます。

 

デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。

なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。

柄谷行人氏  2011.9.11 スピーチ

*** *** ***

そのまま柄谷先生の言葉をいただきます。

 

パブコメによって社会を変えることは、確実にできる。

なぜなら、パブコメを作って提出することで、日本の社会は、人びとがパブコメを作って提出する社会に変わるからです。

 

19日は、気になるパブコメに、いっちょかみしてみます!

軽はずみに御参加くださいませ。

 

企画の詳細は、こちらへ!

yononaka-jsh.hatenablog.com

 

 

 

 最後にもう一度。ぐさり。

 

 

これほど豊かになって、これほどしあわせにならなかった国はめずらしい。

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ウーパースミーツ 100日を経て③

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 花が咲きました

150日を経て、小さな花が咲きました

その10日後にももう一輪

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一輪ずつ、花びらのギザギザひとつずつ、丁寧に咲いています

丁寧な仕事ぶりに感動してふと横を見ると

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棉が実っています

こちらも、個性豊か

 

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10月に入って茄子の花が咲いたり、棉の花も咲いたりしています
こんな薄ぺったい生地を、

こんなきれいな色で、

一枚ずつちゃんと作っている

これらを前に

畏れ入るしかありません

 

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トマト、二けた収穫できそうです

稲刈り、誰が何と言おうと、穂の収穫を「稲刈り」と呼び、終わったらナオライをするのです

 

ふと振り返れば、

耕吉先生の言った通りでした

** ** **

すべて種から育ててきたんです。

ということで、今年は、夏の野菜たちをもうしばらく育てながら、もし、何とかして、場所を移動したり水やりだけで、この夏を越すことができたら、9月に花が咲かなくても、実がならなくても、もしかして葉が茂ってきたら、それはもう奇跡です。

 

それまで無残になっていく苗たちを見ているのはつらい事ですが、全部ポットから抜いて処分することは簡単ですが、それぞれの個体をよく観察していくと、来年がとても楽しみになるのではないでしょうか。

 

私は、初めて植物を育てる人の周囲に最も必要なのは、水と酸素と光と温度とただひたすら応援してくれる人だと思うんです。

 

だから、いつまでも応援者でいたいのです。

** ** **

手が震えます

 

 

先日、あるワークショップのウォーミングアップの時に

講師の永山智行さん(「劇団こふく劇場」代表)が

 カラダを鍛えるというよりも

 自分のカラダのことを知ること

 自分がどんな楽器なのかを知ること

 フルートを太鼓だと勘違いして叩いてることがあるから

 

というようなことを仰っていた(はず。、、、違ったらごめんなさい)

 

コスモスやトマトや稲や棉やナスの振る舞いには、

そこがよくわかってる感がある

そのうえで

土壌や気候に拍子を合わせて楽器を鳴らしているという感じに見えてきた

だから、今年みたいな猛暑の夏は

休符だったのか、チューニングしていたのか

 

すげえなあやっぱり

 

 

10月に入って

違和感を感じる出来事が重なって

モヤモヤ強化週間に入っていたので

手がかりを得られたようでホッとした

 

中秋の名月の日に、嬉しいメールが届いて

閉じそうになっていた気持ちもまた前を向くことができた

約束通り満月になっている月も、そう考えるとすごい

地球温暖化で地球の形が変わって

自転の何かが変わったら、月齢も変わるのかしら

と妄想も膨らむ

 

 

コスモスの花びらのギザギザのように

チューニングしながら

自分の音をよく聞きながら

真面目に、、、、

やったことがないなあと、反省しながら

実は、なにもかもが唯一無二であることを

その中に自分も含めて向き合わなくてはいけないことも

忘れないように気をつけようとしみじみ思いました

yononaka-jsh.hatenablog.com

 

「劇団こふく劇場」

http://www.cofuku.com/index.html

 

続「折り合い」 スロウな本屋読書会を経て

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折り合いをつけるときに気を付けること

人と合意形成するときに気を付けること

 

3人で相談するなら

自分の最初の提案の、3割しかそのまま残ることはない

残りの7割は、他の人の意見や新たな意見で埋まる

 

ちょっと考えればわかることだけれど

「自分の意見が採用される」

というとき

「自分の意見の一部だけが採用される」

という意味であることは、当然で

それが民主主義的な合意形成だと教わった

 

 

ふと気が付いた

残りの7割、他の人の意見や新たな意見の収納場所

これは、自分の意見がもともとあった場所なのだから

自分自身が、それを受け入れなくてはならないということ

 

唐木順三が言っていた気がする

「積極的受け身」

「自己否定の外に、他者肯定の広い世界がある」

 

 

 

それに関して思いだすことがある

高校生の台本づくりを応援していたとき

はじめにYさんが、原案を書いてきた

一通りできあがっていた

が、皆が自分の役を決めて動き出したら

どんどん内容が変わっていく

一人のふるまいが変化すれば、当然反応も変化する

もとの原稿とは似ても似つかない作品となった

 

確か、穴を掘っていたら何かにぶつかってすすめなくなる

そこには、大きな木の根っこがのさばっていて

土の由来をくっちゃべっているうちに

土はかつて生きていたものたちのその後じゃな

花咲か爺さんの灰って、そもそもさあ

と言いながら、土や灰や紙や穴の手触りを探ったり

舞台上に滅茶苦茶に紙をばらまいてぐちゃぐちゃにしているうちに

月が昇っていて

きれいだな

というようなステキな話になった

穴の話だったから

タイトルも「アホーニューワー」にしてしまった

 

 

地区の発表会で上演後、Yさんが言った

「せっかく私が書いた台本が、どんどん形を失って、ぜんぜん別の作品になっていくのが、とても悲しかった。なんかいやだった。

上演前のアナウンスで『Y澤M子作・ア ホール ニュー ワールド』と呼ばれるのを楽しみにしていたはずだった。

でも、実際に『○○○高校 ○○部作・アホーニューワー』とアナウンスが入った時に、みんなで作ったんだ、とすごくわかって、いやだった気持ちがなくなった。なんかうれしいというか、じーんとするというか」

 

彼女は、中学生の頃から私によって深く尊敬されていた人物なのだが、今思うと、人と共に生き存える力を、仲間と共に涵養していたのである。

私達は、そのお芝居がとても気に入っている。

そして忘れられないのは、「みんなで作った」その期間は、相談しているというような状況ではなく、「もめている」「喧嘩している」「なんかこれちょっと、ねえ」というストレスフルな時間であったこと。

みんなほんとに、よくやるよ、がんばるよなあ、と中年は横で見ているだけだった。

今でもそのお芝居のことが、いとおしい。

 

成長という言葉が最近ちょっと苦手になっていたが、見直すことができた。

Yさんたち、ありがとう。

 

 

スロウな本屋さんの読書会を経て、いろいろ思いだしたので、記しておきました。

slowbooks.jp

 

 

 

モヤモヤしてる人のためのジンケンs対話WS③ ふりかえり

モヤモヤしてる人のためのジンケンズ対話ワークショップの第三弾は9月26日(土)に4名の参加者の方と無事に開催することができました。

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今回実施したアクティビティは三つ。

「ほしいもの、ひつようなもの」

「あなたはパンショの絵に何を見ますか」

「ニュースにおける人権」

 

ジンケンズでは対話の前提に『世界人権宣言』の全体像を手元に携えておく必要があると考え、条文とことがらを結び付けるワークを入れるようにしています。暗記して身につけるものでもないので、今回は「パンショの絵」と「新聞に印刷されているもの」を使ったアクティビティを中心に、脳みそにせっせと汗をかきました。

 

「パンショの絵」の内容は、20枚の絵から自分自身に最も強く何かを語り掛けてくる絵を選び、その絵についての分析をシェアする、というシンプルな活動です。が、『世界人権宣言』の条文の筋道をたどることで、問題の在り処を皆さんは自力で見つけていました。絵の内容を何に見立てて、関係性をどう類推するか、が同時に行われるので、自分の経験と目の前の絵と条文と、三つの間を脳ミソがフル稼働。参加者の皆さんの指摘した社会課題がそれぞれ別だったことに、実はかなり驚いていたのでした。すでに自分の頭で考えるスイッチが入っている状態だったので、他の意見も新鮮に受け止められたのではないでしょうか。

 

新聞を使った「ニュースにおける……」では、実は記事に限らず、広告や文字、見出しの表現などを丁寧に読み解くことで、「メディアの影響は、実は思ってるより大きいね」と一同痛感。反対意見を批判する場が保護されている状態を維持するべきだ、という「めんどくさい方向」への合意に至りました。「わかりやすく悪者を設定して、皆でたたく」構図があまりに露骨だったからというのも残念な理由ではありますが、「大切なことのほとんどは、めんどくさいことで成り立っている」と宮崎駿氏もいつだったか、テレビか何かで言っていました。

映像やメディアの情報は与えるインパクトが大きく強大な発信力を持つことを再確認。注意深く、知性を働かせて、どの人権にあてはまるのかを結び付けながら読み解く力を培うことが、新聞やニュースを見て、「なんか腹が立った」の一歩先へ進むために大切だと実感しました。

ジンケンズワークとしては、こうした活動を経て、「侵害されている人権が保護されるための広告を作る」という行動につなげるプログラムも計画中です。

 

話題になった大坂なおみさんの広告についての毎日新聞のサイトです。 

mainichi.jp

mainichi.jp

 

「人権は全ての人が生まれながらに持っている」ものだ、ということもあまり知られていないようです。

「義務を果たすと手に入る権利」という考え方とは本質的に異なるのが人権です。

必要なのはお互いの人権を侵害しない行動を選ぶ責任である、どんな強大な権力にも奪われてはならない、当然犯罪者にも人権はある、赤ちゃんは既に愛される権利を持って生まれてくる、と私は学びました。そしてそれがまだ実現の途中であること、人権が若い概念であることも事実です。

 

それでも昨今のニュースを見るにつけ、「人権を実現するべきだというアンテナ」が、「何が正しいかわからない」という混乱に戸惑うときの「羅針盤」のひとつになり得ると考えます。「知識」「気づくこと」「行動」は涵養できるという人権学習のスタンスで、毎月、脳みそに汗をかく時間を積み重ねて行動につなげていきたいと思います。

 

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白状すれば、私自身の中には激しい好悪の感情があり、理不尽な差別感情が生まれることもあります。自分自身の内面、特に感情の問題をコントロールすることは、極めて困難だと認識しています。だからこそ、腹には色々あるけれど、行動を選択することが重要だと考えています。自分を踏みとどまらせる知識と気づきを鍛えねば!実は、自分を立ち止まらせるものとして、「詩」や「文学」「哲学」の存在の大きさも最近は気になるところです。

 

屈辱的な扱いを受けても、自分たちが正当だと判断する行動を選択し続けた「公民権運動」の側面を知ることができる漫画『MARCH』をおススメします。

miyearnzzlabo.com

彼らが街に行動に出かける前の、自分たちの内面を抑える鍛錬は過酷です。そこまでしなければ、その場にいられなかった彼らが、連帯の中でこそ、それらを実現したことを希望であると私は捉えています。

『MARCH』を私に教えてくださった、スロウな本屋さんに、感謝!

slowbooks.jp

 

 

次回、モヤモヤジンケンズは、10月25日(日)13時開始予定です。

受付での検温、消毒、飲み物の持参と靴下の着用にご協力ください。

申込☞ wassignol.297@gmail.com  ヨノナカ実習室

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対話する哲学教室①「愛とは何か」を経て

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フジタマユさんの写真

 

対話の時間が、枠組みとして終わった後に、私たちは、その対話の前の自分に戻れない。

チャイムが鳴っても、休み時間になっても、けじめのつかない授業、考え続けることを止められない授業が、いい授業だと思っています。

 

松川えりさんの哲学教室は、そういう時間です。

松川さんは、なんだか、スイッチ入れたり、触発したりするんです。

 

プラトン、すっきりしてていい!夫と話してみます」

 

「愛をたくさん考えて、頭がくたびれたよ。いろんなことをモヤーモヤーと考えるのは、楽しくて、エネルギーのいることだね」

 

「教員として生徒を愛すること

 親として子を愛すること

 ヒトラーゲルマン民族を愛すること

 独裁的?独善的?、、独美的?、、モヤモヤ」

 

「魅力という言葉も気になる」

 

日常に戻って、自分の方法で、入ったスイッチに触発されて、動き出すこと。

フジタさんの写真は、その結晶のひとつです。

 

以下、フジタさんのFacebookより引用です

*** *** ***

今日の午後は「愛とはなんだろう」と、みんなで考えるために出掛けた。

愛。そして、美のことも考えた。
例えば「愛は美しい」と言われると、何の話?とは思っても、何となく分かる気がする。
逆に「美しさは愛だ」となると、そうなのか、どうなのか。なんなのか。
美は愛されるもの?
美を愛さずにはいられない?
美人は好かれる。愛される。
なぜなら、美しいから……分かるような、分からないような。
なんなの。プラトンは何が言いたいの。
考えながら、ふと視線の先に見つけた「写真を撮りたい」と思った風景。
そうか、そう言えば、私が撮りたいと思う風景には、美がある。いや、愛がある。いや、どっちだ。
しかし、撮りたいと見つけたものを、美しいと思うことに間違いはなく、愛があるとも感じる。何でも撮っているわけではない。
プラトンの言っていることは、こんな感覚?
私は写真を撮る。毎日のように撮る。
記録として撮ることもある。
仕事だから撮ることもある。
しかし、撮らねばならないときも、そこに美を探す。そこにある愛を撮ろうとする。
撮りたいから撮るときは、もちろん、美を見つけたから撮る。そこに愛も見える。
私が愛する、というよりは、そこに愛があることを見つける。そこにある、愛を撮るのだ。
そういう意味では、世の中至るところに愛があると思う。
一般的に、愛とは?と問われると、男女間、夫婦、親子の関係などが浮かぶのかもしれない。
そして「愛」ではなく「愛する」という動詞のイメージになるのだろうか。
動詞になると、私にはどうもピンとこない。普段「愛しています」なんて感情が湧き上がることはないように思う。
「愛する」を「大切に思う」に置き換えればという話が出たけれど、うん、それなら分かる。
しかし私は「愛」というモノになれば、それはよく感じている。
写真を撮ることもそうだけれど、よく「この人は愛のある人だなぁ」と思うことがある。
あの人も、あの人も。
「愛が溢れてるわ」「愛が深いわ…」と感心している。
誰にでも思うことではない。
しかし「じゃあ、愛を持たない人はいるのだろうか」と考えてみると、私が深く知らない人でも、愛がない、とも思えない。
そういう意味でも「愛」はいろんなところにある。
音楽を奏で、人を楽しませたい、元気づけたいと思うことも、愛だと思う。
人と繋がり、語ろうと思い行動するのも愛だ。
自分の中に、愛があるかは分からない。
ただ、自分は愛を知っているとは思う。
愛とは何かを考えながら見つけた、写真を撮りたいと思ったのが、こちらの写真。
見たらすぐ分かる、美しい人でもなく、咲き誇る花でもなく、真っ赤に輝く熟れたトマトでもない。
これは、私にしか見つけられない美と愛、かもしれない。
プラトンはこのことを言っているのだろうか。
それとも、全く的外れだろうか。
愛とは何かを考え、話、笑っていたら、いつの間にか体調も落ち着いて、来たときよりも元気に帰る。
そして、この時間と場所にもまた、愛があったと思う。
*** *** ***
 
石牟礼道子さんの「魂の深か人」を思い出す。
そして、愛はどこにあるのか。
 

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第2回の日程が決まり次第、お知らせします!